ダンスホール・レゲエが世界的に認知されるようになった
きっかけを作ったシャバ・ランクス。
ジャマイカ発の世界的ダンスホールDeejay。
下ネタ全開な歌詞が特徴的で卑猥かつ攻撃的なスタイルが特徴。
今回はそんな彼にフィーチャーしていきたいと思います。
シャバ・ランクス(Shaba Ranks)とは
ド太い声と、下ネタ全開な卑猥で攻撃的なスタイルを貫くDeejay。
グラミー賞も2度受賞をし、お母さんには家を買ってあげる程の親孝行者。
そんなシャバ・ランクスは、人気と知名度が爆発していました。
世界的なアーティストの作品に客演したり、ヒップホップアーティストと共演をし、
ダンスホール・レゲエを世界にしらしめました。
歴史
1966年1月17日、セント・アンズ教区生まれです。
名前は、レクストン・ラウルストン・フェルナンド・ゴードンとして生まれました。
レクストンが8歳の時に、キングストンへのウォーターハウス地区に移り住みます。
子供のころから地元のサウンド・システムで腕を磨きます。
12歳、ディージェイのとりこになり、ルーツ・メロディーサウンドシステムで
ライブのディージェイを始めます。
その頃彼がお気に入りだったアーテストは、イエローマン等です。
87年の頃から、ダンスホールレゲエ創設者的存在のキング・ジャミーの元で
レコーディングをスタートしていきます。
この頃の代表的なヒット曲は、「Love Punanny Bad」。
その後は、ジャミーズにいたエンジニアの、ボビーディクソンが設立した「デジタル・B」や、
スティーリー&クリーヴィーといったレーベルでローカルなヒットを連発していきます。
彼初となる「Rough & Rugged」は1988年にリリースされ、大ヒットしました。
ココ・ティーや、クリスタルといったシンガーともコンビ曲を次々とヒットさせていきます。
そしてDeejay初となる米国メジャー・レーベル「エピック」と正式契約。
1991年に「AS Raw As Ever」で世界的にシャバの存在が知られることになる。
この大ヒットで彼はグラミー賞を獲得します。
最終、メジャーからは通算3枚のアルバムを発表します。
「X-Tra Naked」「A Mi Shabba」
しかし、この頃から実家に泥棒が入ったりと世界的に活動を続ける彼に対し
ジャマイカのファンの間に隔たりが....。
というのでNYへと移住をしてしましました。
最後に
世界的にダンスホールレゲエを知らしめた偉大なアーティスト。
卑猥で攻撃的と言ういかにもといったダンスホールレゲエ。
シャバが今のダンスホール・レゲエの核を作ったのでは。
是非チェックしましょう。