カナリア・ヴォイスで有名なバーリントン・リーヴィー。
レゲエのダンスホール・シンガーとして長い間活躍しているアーティストです。
1980年から1990年と活発的に活動されています。
今回はそんな彼にフィーチャーしていきたいと思います。
バーリントン・リーヴィー(Barrington Levy)とは
やはり一番の特徴は声。
一声聞いたら「あ、バーリントン・リーヴィーだ」とわかる声です。
世界的にも有名で、ツアーなどもしてきています。
2000年も活発に活動を行っており、
2016年には彼のアルバム「Acousticalevy」がベストレゲエアルバムのグラミー賞にノミネートされています。
そして、息子のKrishaneもミュージシャンをしており、 Atlantic Recordsと契約をしています。
歴史
バーリントン・リーヴィーは、1964年にジャマイカのClarendonで生まれました。
彼は、13歳の時に「マイティ・マルティデュード」と言う名前でデビューを果たしました。
バーリントン・リーヴィーという名で知られるようになったのは、
プロデューサーのヘンリー・”ジョンジョ”・ロウズと出会ってからである。
78年にジョンジョのもとで録音された「Looking My Love」「Shine EyeGal」等、
全てが大ヒットしたことによって、ダンスホール・シンガーとしてブレイクします。
ジョンジョに出会う前も多くの曲を録音していましたが、
それらは、Jah Lifeレコードレーベルからリリースされた
「Bounty Hunter」に収録されています。
リーヴィーがブレイクしたと同時に、ジョンジョのヴォルケイノ黄金時代がやってきます。
ここからヴォルケイノが中心となった80年代のダンスホール時代の幕開けになりました。
それにより、ヴォルケイノを中心に数多くのレーベルからヒットを量産していきます。
トップ・ダンスホール・シンガーとしての地位を不動のものとします。
彼の歌声、歌唱力等がずば抜けているがためにトップ・ダンスホール・シンガーの
地位を不動にできたのではありません。
理由はそれだけではなくて、詩の評判も良かったのです。
内容的には、ジャマイカ民の日常、喜怒哀楽が詰まった物でした。
1990年以降に彼の歌声が世界的に広まっていきました。
1991年カッティ・ランクスとの「Dancehall Rock」
1996年バウンティ・キラーとの「Living Dangerously」
が世界的に大ヒットしました。
それによって彼は、メジャーデビューを果たしたり、
ヒップ・ホップシーンとの繋がりも深まっていきます。
これからも語り継がれるダンスホール・シンガーであり続けるだろう。
最後に
半端ない歌声、歌唱力。
ダンスホール・シンガーとしての地位は今でも不動であろう。
これからも彼からは目が離せない。
そして息子も要チェックしていくことが必要だろう