ダンスホール・レゲエの大御所イエロー・マン(Yellow man)。
キング・イエローマンという異名を持ち、80年代では国際的なスターとなっていた。
そんな彼はどんな過去があったのか、どんな人なのかにフィーチャーしてみたいと思う。
イエロー・マン(Yellow man)とは?
イエロー・マンは、「キング・オブ・ダンスホール」と言われていたほどの
ダンスホール・レゲエの大御所です。
若いころは、アルビノであるがために辛い過去を送っていたことが有名です。
幼少期に両親に捨てられてしまったり、周りからアルビノをいじられたり。
しかし彼は、キングストンの音楽シーン激戦区で、
成功したい、レコーディングしたい、と強い気持ちから自身のスキル、
リズムに乗る能力を磨き、見事ジャマイカ人初のディージェイとしてスーパースターになったのです。
歴史
幼少期に両親に捨てられたことによって孤児院を転々としていたが、
最終的に、キングストンのアルファ・ボーイズ・スクールで教育を受けました。
そしてレゲエから様々な刺激を受けディージェイをこころざすようになります。
彼は、リズムに乗ることを得意と市、洞察力、ユーモアにあふれるリリックを届けました。
1980年にはレコードデビュー「Even Tide Fire」を果たします。
そして1982年にはファーストアルバム「Mister Yellowman」
1983年には代表作となったアルバム「Zungguzungguguzungguzeng」
をリリースしています。
さらに1984年にはアメリカ合衆国のCBSレコードと契約をし、
ダンスホール・レゲエのアーティストとして初のメジャーデビューを果たします。
それだけ世界にも認められる程のダンスホール・レゲエアーティストとして
認知されて行っているのがわかります。
アメリカでは、ヒップホップアーティストとも積極的に交流をしていたそうです。
しかし、不運にもアルバム「King Yellowman」はあまり売れずだったそう。
とはいえグラミー賞、Best Reggae Recordings部門にアルバム
「King Yellowman」はノミネートされたようです。
その後、1986年に口腔癌が発見され、余命半年と休止に立たされましたが、
そこは生きることを諦めることなく手術を実施。
見事に成功し、音楽活動再開できるほど復活しました。
しかし、代償として彼の特徴的な艶のある声はしわがれてしまい、作品のリリース量も減少してしまいました。
ですが、1987年に発表した「Blueberry Hill」のカバーはジャマイカ国内チャート1位を獲得したのです。
その後も多くのヒット曲をリリースを続けるイエロー・マンは世界的にずっと人気がある
レジェンド・オブ・ダンスホールなのです。
最後に
古き良きをしれと。
古くからリリースしているYellow manの曲を是非チェックしたいところです。
そしてツアーでは日本を訪れることも。
この先ツアーがあれば、是非ダンスホール・レゲエ好きは
現場に足を運んでみてはいかがでしょうか。
本場、レジェンダリー・ダンスホール・レゲエを感じましょう。